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小説『朝霧』 二十一話

 

昔……
勝巳は積極的になっていた。旅行の営業マンだから、話は上手だ。兄の武雄に有利な弘子の農協への就職。それまでに何とか付き合いを始めなければ駄目だ。勝巳には弘子があのように綺麗な女性に育っていたことが驚きだった。
用事もないのに電話をしてきた。父直樹と母俊子は知っていたから「勝巳さんが弘子を気に入ったみたいですね」
「そうか、よかったな」
二人は婿養子の確保が出来そうだと喜ぶのだった。

翌年になって俊子が「お父さん、最近、休みになったら土手に車が長時間止まっているのよ」
「休みのたびにか? 家から離れすぎだろう?」
「そうですけれど、田畑ですから、見えるのは見えますよ」
「確かに見えるけれど、双眼鏡が必要だよ」
「今度一度見てくださいよ、弘子が写真を撮影されたことと関係があるのでは?」
「もう二ヶ月前だろう?」
「私達は気が付かなかっただけで、以前から私達の家を見ていたのかも?」
「そうだなあ、今度の休みには注意して見てみよう」
「弘子のその後は何もないようですがね、心配で」
「そうだな、もしものことがあれば婿養子のことも流れてしまうかもしれない」
二人は弘子の廻りに変な男がいると感じていたのだ。
………


自宅でお風呂をあがって、部屋のクーラーの下で涼みながら、ビールを飲む正造、陽子の寝顔を見て、遠い昔を思い出していた。弘子に痴漢にされてしまって、最後まで一度も話もしなかった弘子の娘が目の前に眠っている。それも下着姿で。信じられない光景だった。陽子は小
さなバックと少し大きな布袋を持っていた。もしかしてこの中は着替え? あのような手紙を書くのだから当然、着替えを持参しているのだろうと思うのだった。
寝返りで布団からはみ出す身体。
「正ちゃん、私のこと、好きになれないの?」また大きな声で寝言を言う。正造には陽子が自分の考えが感じ取られていると思う寝言だった。陽子さんはまだ若い。こんなお爺さんと仲良くなっても幸せにはなれないよ。確かに陽子といると楽しい。でも、自分の年齢を考えるとどうしても、これ以上前には進めない、今から二十年後を考えると恐い正造だった。
陽子は今夜ここに泊まることは始めから決めていたのだ。正造に抱かれてもいいと考えて来ていたと理解していた。それがわかっても何も出来ない正造だった。

朝になって陽子が目覚めた時、食卓のテーブルには味噌汁と干物の焼き魚、海苔、卵焼きが並んでいたのだ。陽子は自分の身体の異常を感じなかったから、昨夜は何もなかったと思った。
でも下着姿。
「正ちゃん、おはよう、シャワー使ってもいいかな?」
「枕元にバスタオルとか置いてあるから使いなさい」
見ると新品のバスタオルとか歯ブラシが置いてある。バスタオルを巻いて、正造の前に「昨夜はすみません」と会釈をした。
「いいのですよ、酔っ払ったからね。早くお風呂に入って。お湯も入っているから」
「ほんとう?」
着替えの袋を持って浴室に行く陽子。
「大きいね、風呂場」
「お風呂好きだから、特別製ですよ」
洗い場も湯船も大きく、二人の大人が充分入れるのだ。
陽子は正造がまだ母を忘れられないのだな、と湯船で考えていた。髪を洗って、洗面台のところにはバスローブも置いてあった、新品だ。
「味噌汁が冷めるから、バスローブを着て先に食事をしなさい」
料理は母の春子が持ってきたのだ。春子は朝、正造から先日の女の子が酔っ払ったので泊めてあげたのと言われて、これは本物だよ、朝ご飯作るよと張り切ったのだ。正造は逆転満塁ホームランを打ったよと良造に話していた。二十年前に振られた女性の娘と交際する我が子に驚きと称賛だった。それも可愛くて、綺麗。そんなに遊んでいる娘にはとても見えなかったから、昨夜二人は結ばれた、これで結婚間近。春子は天にも昇る気分で料理を作って持ってきたのだ。若いから子供も充分生める。田宮の家は新宅の亮造の子供にと思っていた矢先の出来事に気分は満点だった。
「美味しい、正ちゃんが作ったの?」
「まさか、母ですよ」
「えー、私が泊まったことをお母様は知っているの?」
「はい、何故か喜んでいましたよ」
「わー、誤解されましたね」
バスローブに頭にはタオルを巻いて、今この場所に来たら完全に決めつけられてしまうような、そう考える陽子。その時本当に春子がやってきた
「おはよう、起きたの? 桜井さん?」
仕方がないので「おはようございます、泊めていただいて、食事までいただいています。ありがとうございます」
陽子の姿を見て春子が「いいのよ、朝からお風呂に?」
「はい、汗をかきましたから」
春子は嬉しそうな顔をして「そうなの? ゆっくりしてから帰ってね」
そう言って春子は帰っていった。
自宅に戻ると「お父さん、あの二人はもう、もう、結婚ですよ」
「どうしたのだ、慌てて」
「朝から汗をかいたらしくて、お風呂に入っていました」
「おお、そうなのか、正造もなかなかじゃないか」
誤解をして喜ぶ両親だった。
「少し待ってください。暦を見ます」
「昨日は先勝で今日は友引ですよ、内孫の誕生も早いですよ」
「おいおい、お母さん、少し早くはないか?」
「いいえ、正造はもう四十五歳ですよ、遅いですよ」
「じゃあ、秋には結婚式だな」
「そうですよ、お腹が大きくなったら恥ずかしいでしょう」
二人の勝手な話がドンドン進むのだった。
「お母さん、誤解しましたね」
「そうかもしれないな、陽子さんの自宅じゃないから、噂は聞こえませんよ」
「聞こえてもいいですけど」と意味ありげな発言。食事を終わって髪を乾かし始めると「してあげよう」と言って正造が手伝ってくれた。優しいのよね、最高よ! 正ちゃん、素敵だわ。ほとんど裸で寝ていたのに触らないのは、嫌いではないのだ。紳士なのだ。そのように理解すると、陽子はますます正造が好きになっていった。
「キスはしてもいい?」
陽子は髪が乾くと正造に抱きついて、キスをするのだった。長い時間離れない、喜びを噛みしめていた。正造がこれはいけない、これはいけない、陽子が戻れなくなる、もちろん自分も戻れない。徐々に好きになっていく自分が恐かったのだ。

突然陽子が「何故、お母さんとうまく交際出来なかったの?」
「……」
「お母さんがお父さんと恋愛していたから?」
「わからない」正造ははっきり言おう。それで陽子は自分から離れて行くだろう、そう思った。
「実はね、お母さんの恋愛は知らないのですよ、私が知っているのは、お母さんの短大時代だけですから」
「それは、聞いたわ」
「陽子さんの村は桜井って名前多いでしょう?」
「はい、七割が桜井ですね」
「昔ね、お母さんにラブレターをお母さんの好きな俳優のコンサートのチケットと一緒に送ったのですよ」
「やるー、素敵! でもお母さんは断ったのね?」
「違うのです、同じ村に当時、桜井弘子さんが二人いたのですよ」
「えー、間違えて届いたわけ?」
「そう、七十代のお婆さんのところに届いたのです」
「何? それ、驚きだわ」
「そうなのです、私はそれを知らないから、断られたと思ったのです」
「なるほど、愛の告白が届かなかったのね」
「そうなのです。それでも諦められなかったのです」
「それで二十年以上独身なの?」
「はい」
「でも顔も見ないで、話もしてないで、よく思い続けましたね」
感心する陽子。
「正直、こんなに長い間覚えているとは思いませんでした」
「それで、私を見て驚いて追いかけてきたのね」
「はい、昔が蘇ったのです」
「凄いわ、不思議だったの。こんなに優しくていい正ちゃんを何故、母が振ったのか? と不思議だったの」
「恥ずかしい話です」
「昔は、携帯もメールもなかっただろうし、電話がない家も多かったでしょう。私の家も田舎だから、多分電話がつくのが遅かったと思うわ。意志の疎通は手紙か言葉だったからね、それが間違えて届いたら、送った本人は誤解するよね」
「はい、嫌われていると思いました」
陽子は年齢差を超えて、正造がこの二十年以上悩んだのだと感じていた。失われた二十年なのだ、伝わらない悲しさ。そう思うと涙が一筋頬を伝った。

 

 
 

 
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