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小説『朝霧』 十九話

 

笹倉の家を出た陽子は、両親のことよりも大事だと考えて、正造にどこかに行こうとおねだりをしていた。せっかく会えたのに、このまま別れたくなかったのだ。日々大きくなる正造の存在なのだ。昼は過ぎていたから簡単な冷麺を食べて「暑いから、清水寺まで行こうか?」
「えー、今から京都は遠くない」
「違うよ、近くにある播州清水寺だよ」
「そうなの、近くに清水寺があるのね」と初めて聞いた陽子だった。
清水寺(きよみずでら)は兵庫県加東市平木にある天台宗の寺院。山号は御嶽山。本尊は十一面観世音菩薩で秘仏となっている。西国三十三観音第25番札所。同じ西国三十三観音の第16番札所である。京都市の音羽山清水寺と区別するため播州清水寺とも呼ばれる。夏でも木々が生い茂り、少し高い場所にあるので涼しいのだ。人面魚の鯉で最近有名になったのだ。
駐車場に車を止めて山道に入ると、冷たい緑の空気が二人を包み込んだ。
「気持ちいいわね」
「でしょう? 暑さを忘れるでしょう」
正造と腕を組んで歩く陽子には最高の気分だった。その時、正造の腕を陽子が強く掴んだ。
「あそこに、大蛇が」と指さす。見ると小さな蛇の尻尾が石垣の間に入って行く。
「小さな蛇ですよ」と言うと「いいえ、大蛇でした。私は蛇が嫌いです」と言ってまた正造の腕にしがみつくのだ。悪い気持ちはしない。正造は蛇に感謝していた、親子? カップル? そのあとはべったりと離れない陽子。汗が伝わってくる。境内の池のベンチに座って人面魚の鯉を探す二人。
「あれよ!」
「違うよ」
「じゃあ、あれは?」
「違う、違う」
二人と同じように他の二組のカップルも人面魚探しに楽しい一時を過ごすのだった。
楽しい思いのあと、家に戻ると祖父母が恐い顔をして待っていた。
「陽子、笹倉の家に行って、セントラル旅行社の話を聞いたらしいな」
「そうよ、お爺さん達が何も教えてくれないからよ」
「お父さんが勤めていたことを聞いたから納得したのか?」
「……」
「心臓の悪い笹倉のお婆さんを苦しめたら駄目だ」
「……」
横から俊子が「誰でも忘れたいことがあるのよ」
「それより、何故、田宮という保険会社の人と行ったのだ。保険金のためか?」
俊子が「どこで保険会社の人と知り合いになったの?」
陽子は二人の話で事故? が確実にあったと悟った。
「しょう……田宮さんはこの家に来たのよ」
「いつ? 何の用で?」
「お母さんに会いに」
「えー、弘子の知り合いなのかい」
「私がお母さんに似ているからびっくりして話しかけてきたのよ」

二人は顔を見合わせて「確かに、陽子はお母さんの若い頃に生き写しだ。しかし、家を訪ねてくる田宮って人は知らないなあ」
「私も知りませんね」
「でも、本当よ」
二人は必死で思い出そうとしていたが、思い出せないのだった。
二人が考え込んだすきに陽子はその場を離れて二階に。野々村智也に電話をした。海外ブライダル企画がいつ頃から始まったのかを尋ねたのだった。野々村は調べて連絡をするという返事だった。
翌日も祖父母は田宮を思い出そうと、暇さえあれば考えていたのだ。
田宮も大阪のセントラル旅行社に保険金の調査と偽(いつわ)って電話で尋ねていた。調べて折り返し連絡をくれることになっていた。
………

その昔、寒そうな顔で弘子は自転車で冬の夜道を帰ってきた。
帰るとすぐに「お母さん、恐いのよ」青ざめた形相(ぎょうそう)で訴えた。
「どうしたの?」
「痴漢よ、痴漢に遭ったのよ」
「どこでなの?」
「道路に潜(ひそ)んでいたのよ」
「えー、この寒い時期に? 大丈夫だったのかい?」
「必死で逃げてきたわ」
「そうなのかい、変なのが多いから気を付けないと。街灯もない場所?」
「違うわ、役所の駐車場のところで待ち構えていたみたい」
俊子が不安な顔で尋ねた。
「最近誰かに尾行されてたの?」
「ないわ、でも恐い」
「嫁入り前でもしものことがあったら大変だわ、お父さんに相談してみるわ」
「家も知っているのかしら?」
「偶然見かけただけなのかも。明日からも注意して通学するのよ。もう少しで卒業だからね」
「はい、また変なことがあったら、警察に守ってもらわないと恐いわ」
そう言って弘子は自分の部屋に入って行くと、しばらくして妹の聡子が「お姉ちゃん、痴漢に胸を触られたんだって?」と弘子の部屋に入るなり言い出した。
「誰が胸を触られたって言ったのよ?」
「違うのか。お姉ちゃんにも、男性が寄ってきたのね、よかったね、魅力あったんだ」
「嫌よ、痴漢は要らないわ」
二人の話に似たようなことを、その夜、直樹と俊子は話し合っていた。
「弘子も、そんな年頃になったのだね」
「そろそろ昔から口約束をしてた笹倉の叔母さんに話をして、準備をしないと駄目でしょうかね」
「そうだな、叔母さんは六人の子持ちだ。婿養子を一人お願いしますと酒の席ではよく話したが、正式には一度も話してないからな」
「笹倉の家は清巳、久雄、武雄、勝巳と四人も男がいて羨ましいよ、なあ」
「弘子が恋愛でもして、都会の男を連れて来たら大変ですからね」
「弘子も綺麗になったから、虫が付かない間に決めた方がいいな」
「結婚しなくても、本人たちが自覚してれば、もう少し時間が過ぎてもいいじゃないですか。候補は武雄さんか勝巳さんね」
「武雄君はどこに仕事に行っていた?」
「地元の農機具店でしたよ、勝巳さんは去年大学を出て旅行社とか聞きました」
「農業をしてもらうなら武雄君だな」
「でも、これからは大学を出てないと。弘子も短大を出ていますから」
「武雄君は高卒か?」
「普通科ではなかったと。話が合いませんよ」
「でも、農業が」
「お父さんはまだ若いから、定年まで農業出来ますよ」
「定年後に農業をしてもらうか!」
「機械が良くなったから、農繁期に少し手伝ってもらえば充分でしょう」
「そうだな、来週でも一雄さんに会いに行くか」
桜井の家では、勝巳を婿養子にもらう話をすることにしたのだった。
笹倉の家から帰った直樹が、本人たちが気に入るかが大きな問題だという話になったと言う。次回は休みの日に弘子を伴って行くことにする直樹だった。弘子には内緒で、顔見せに連れて行こうと二人は思った。笹倉の家では、婿養子に行くことに武雄も勝巳もいい返事をしない。
「まだ、十九歳だろう、小便臭い姉ちゃんだろう?」

勝巳が言うと武雄が「何度か見た。でこの大きい、綺麗ではなかった女の子だ」
一雄が「お前達のどちらかが婿養子に行かなければ、桜井の家は困ってしまうんだよ」
「田んぼは幾つほどあった?」
「一町と少しあるだろう」
「田んぼ一町で、一生小便女を相手にするのは辛いな」
「親父の頼みでも俺は降りた」と勝巳が言うと
「農協の女で気に入った女性がいるんだ」と、武雄も逃げ腰になるのだ。
「兄貴、それ兄貴の片思いだろう?」と勝巳が茶化す。
「来週、本人を連れてくるらしいから、お前達も自宅にいてくれ」
「えー、俺遊びに行く予定だったのに」と言う勝巳に「必ず二人は家にいること!」そうきつく言う一雄だった。
弘子は顔見せに行くことを知らない。最近行ってないから一度祖父母に挨拶に行こうと言われていた。弘子が自動車免許を取得して直樹が車を買い与えたから、運転がしたい。
嬉しくて弘子は何も考えないで直樹を乗せて笹倉の家に向かったのだった。
「こんにちは、ご無沙汰しています」とお辞儀をする弘子を見て、笹倉の家族の全員、目が点になっていた。
弘子に会った智恵美が勝巳の部屋に慌てて走って行って、勝巳に「勝巳兄ちゃん、武雄兄ちゃんに取られてしまうわよ」
「何を?」
「桜井さんの娘さんを!」
「兄貴に譲るよ、俺は要らないよ」
「お兄ちゃん、それ本気? 映画スターみたいなのよ」
「お前、兄貴をからかうのが好きだな」
「本当だってば、先月封切りの映画に出ていた女優さんにそっくりよ」
「こんな田舎に映画スターのような女がいるか。眼鏡を買えよ」と笑いながら相手にしない。
武雄も婿養子に行きたくないので納屋で農機具の点検をしていた。
兄嫁の富子が「武雄さん見に行きなさいよ、今公開している映画の主役の女の子そっくりの娘さんですよ」
「お姉さん、冗談がきついですよ」
「武雄さん、そんなことないわ、本当よ、私なんて問題外よ、女優さんよ!」
そう言われて渋々油で汚れた手を拭きながら納屋から出てきた武雄は、唖然として見とれていた。

 

 
 

 
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