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小説『朝霧』 二話

 

正造にはこの女性、桜井弘子が初恋だったのかもしれなかった。子供の頃の憧れを初恋と呼ばなければだが。過去に女性に対して、このように積極的になったことは一度もなかったのだ。
駅前の小さな宿で寝付けない。正造は、興奮していた。うとうととしていただけだ、熟睡が出来なかった。
四時過ぎに起きて、朝飯も食べずに旅館を出て、駅に向かう。時間はもうすぐ五時。薄暗い。晩秋の風は冷たい。
駅前でしばし待つが、知っている人は誰も来ない。やがて始発電車がホームに到着する。
乗り込む人達の息が白い。彼女の姿はどこにもなかった。
窓際に座ると、次の駅の状態が見えないので、空席がある車内で立ち続ける正造。不思議な光景だ。
駅に到着するたびに、確認のためにホームを先頭車両から探す。幾つもの駅を通過しても、彼女はもちろん彼女の友達も乗車して来なかった。今日は彼女が乗る曜日に間違いはないのだが、不思議といない。ついに終着駅まで彼女を見ることはなかった。もちろんその日のいつもの車両にも、彼女を始め友達の姿はなかった。正造のショックは相当なものだった。
仕事の帰り、また電車に乗って、始発駅まで車を取りに行くのは気が重かった。何もわからない辛さをしみじみと感じたのだった。
でも数日後、彼女に電車で会うと心がときめく。正造にはどうすることも出来ない。また満員電車の通勤、一目惚れ、疑似恋愛の世界しかなかった。きっかけがないまま時間が過ぎて行く。

そんなある日、正造の弟亮造が正造に「電車に、凄い可愛い女の子が乗っているんだよ、女優さんにそっくり」と言った。亮造は一浪して今年から国立大学に通学していたのだ。
話を聞いていると、特徴が、それは桜井弘子そのものだった。信じられない。あの満員電車の中の一人の女性を弟が見つけるなんて。まさに奇跡に近い出来事だった。
正造は「その人と話をしたの?」と聞いてしまった。それは自分のライバルに弟が?だったから。
「無理だよ、友達いたしね、でも美人だった。近いうちにチャンスがあれば、声かけてみよう」そう言って笑った。自分の憧れの女性だとは言えない正造だった。多分、弘子は弟よりひとつ下だろう。でも急がないと弟と懇意になってしまう、と焦る正造だった。

冬休みまでに何とかしなければ。
仕事の段取りと彼女の通学の日にちを合わせて、二度目の始発駅待機を決行する正造だ。もう朝は寒い。十一月半ば、早朝はもう冬だ。
ホームで待つ正造。もし自分のことを相手が知っていたら、完全にストーカーだ。でも知りたい思いは止められない。そう思うと、今度は自分が見つからないようにすることを考えるのだった。
正直に「あなたのことが好きなのです、お付き合いお願いします」と言えない正造だった。
「ごめんなさい、好きな人がいるので」と言われるのが恐い。それと始発駅まで来ていきなり言うのも変な感じだ。結局、どこから乗車するのかを調べるだけにしようと考えてしまう正造だった。
ホームの先頭で待つ正造の目に桜井弘子の姿が目に入った。始発だったのだ。薄暗い時間に、ホームに寒そうに立つ弘子の姿は幻想的な美しさだった。こちらをチラッと見たような気がして、思わず目を背ける自分が虚しい正造だった。本当なら、このまま車で戻るのだが、仕事に遅れるので、一緒の電車に遠く離れて乗り込むのが精いっぱいだった。
次の駅でいつもの友達、野々村真希と大山順子が乗り込んできて、いつもの光景になっていた。この三人がどこの短大なのかは、四月の会話でわかっていたが、初めて遠方から、二時間以上通学に時間を費やしていることを知ったのだ。駅からまた自転車を使うならもっと時間が必要だ。田舎の通学は大変なのだと痛感する。通学の距離では多分ギリギリの距離だろうと、正造は思った。

数日後、彼女の住んでいる町を知りたい、そんな思いが車を走らせる。次の休みには車で彼女の町まで出掛けて、散策をしたいと思った、とにかく同じ空気を感じたい正造だ。二回来たけれど、何も見ないで駅前の旅館に泊まり、空き地に車を駐車しただけだったから、そして暗くて何も見えなかった。
正造が見た昼間の町並みは中心に川が流れて、川を中心に町並みが造られていた。その昔は川で染色作業をしていた、風情が残っていた。最近は郊外型のスーパーが進出して賑わっている。町の歴史を調べると、昔は今よりもっと栄えていたことを知った。織物、染色に各地から女工さんが働きに来て賑わっていて、パチンコホール、映画館とかが数軒駅前に存在していたらしい。今では一軒だけが、ポルノの映画館として残っているだけだった。
正造は車で町中を色々散策しながら走っていたら、前に警官が出て来て止まれの合図。
車の窓を開けると「ここは今の時間は走れないのですよ」時間指定の進入禁止だった。青の交通切符を切りながら警官は嬉しそうに「この町は初めて?」と言った。正造は嫌みな警官だ、と怒りの顔で走り去った。この町にはその後もいい思い出はなかったのだ。

桜井弘子の自宅はわからなかったが、正造は何か彼女に近づいた気分になっていた。交通切符だけが大きな失敗だった。

その後、弟の亮造から彼女の話を聞いたことは一度もなかった。多分もう見かけていないのだろう。偶然だったのだと安心した。

師走になって、世の中はクリスマスムードに包まれた。
名前と乗車駅がわかったが、それ以上は何もわからない。
ある日友達が「弘子もうすぐ誕生日ね」
「いつも、クリスマスと一緒だから、お祝い気分がわからないわ」
「でも損した気分でしょう」そう言って微笑んだ。
「二十三日だからね、毎日ケーキは食べられないわ」
正造は弘子の誕生日が、十二月の二十三日だとその時わかったのだ。本当はお祝いを買って持って行きたい正造だった。家はどこなのだろう? と気になり出した。確実に学校に通学した日に始発駅で待つのは? どうだろう? 仕事をサボって、正造の思いは募る一方だった。そう考えると冬休みまであと僅わずかだ。焦る正造。
もうクリスマスまで数日のある日、正造は決行したのだ。
朝会社に行って、午前中で病気のために早退を申し出ていた。明日は土曜日、正造の勤めている保険会社は大きいので、世間がまだ週休二日になっていなかった時代に、既に土日が休みだった。
会社では具合が悪そうな顔をして、午前中に早退をしたのだ。急いで自宅に帰ると、自動車を飛ばして始発駅まで走った。幸い家族には見つからないで、自動車を出せた。母に見つかるとまた心配させる、自分は言い訳の嘘を考えなければならなかったから。
もし彼女の授業が一時限で終わっていたら、万事休すなのだが、運を天に任せてカメラを持参で向かったのだった。恋は盲目だ。性格も何もわからない女性に、恋い焦がれる哀れな青年の姿がそこにあった。正造が駅前に到着したのは十五時半だった。もし既に帰宅していたら会うことはないのだった、我慢だった。十九時くらいまで待ってみよう、車を少し離れた駐車場に止めて、駅前を見渡せる喫茶店で遅めの昼食を食べる。
一時間に一本しか電車が来ないので、一本が到着すると、一時間は暇だった。駅前をぶらぶらして、喫茶店に入って時間を潰す。次の電車でいつも見かける友人の笹倉真子が降りてきて、帰ってきたと期待したのだが、一人だけだった。もう自宅だろうか? 辺りは薄暗くなってきた。寒い駅前のパチンコ店に入って暖まる。パチンコをしない正造にはうるさいだけの場所だったが、寒さと時間を潰すには最適だった。
もう一本電車を待ってみよう、もしも駄目なら諦めて帰ろう、そう考える正造の耳には、騒がしいパチンコ店の音も聞こえなかった。

 

 
 

 
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